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第六回「国際政治の変動と内政『世界大戦後の国力増強』」

人類始まって以来の未曽有の大規模な殺戮をもたらした、第一次世界大戦(1914.8-1918.11)は、我が国を取り巻く諸条件に大きな影響を与えた。

とりわけ、経済においては、英仏ロなど連合国の軍需品・食料品需要、アジア諸国の日本製品需要、米国の生糸需要などが増加して輸出が拡大、海運収入の増大などもあり、経常収支は大幅に好転、外貨保有高も逐年増加した。経常収支は、1915〜19年の5年で約30億円の黒字。外貨保有高は、13年末の約3.6億円が19年末には約20億円まで増加した。産業では、海運需要の増大から造船業、また、輸入の減少から、薬品、染料などの化学品工業、鉄鋼業、機械工業が好況を呈した。

「欧州の戦争が終了したならば、各国競争して国力の進展を図るのである。この経済上の競争、即ち経済戦においても、またあえて敗を取らぬような計画を今日よりいたしておかなければなりませぬ」

当然のことながら、戦争で得た好景気は、戦争の終焉とともに、転換点を迎えることが想定された。
世界大戦が生じた1914年の11月に、同年6月に政友会総裁に就任していた原敬はすでに上のように述べ、戦争期間中から戦後に備えた国力増強を主張していた。

世界大戦がほぼ終息段階にあった18年9月、首相に就任した原は、終戦後の不況が予測された経済対策に取り組むことになる。そして、19年1月、初の施政方針演説で、教育の改善、交通機関の整備、産業の振興、国防の充実という、いわゆる「四大政策」を提示する。同政策は戦後の国際社会の変動を見据えた日本経済の国際競争力の大幅な強化を図るものであった。

第一に、教育については、国際経済競争に従事できる人材の養成のために、高等教育機関の拡充を重視していた。具体的には、1918年12月、大学令、高等学校令によって、大学、高等学校ともに、官立のほか、公私立の学校が認められた。総合大学以外の単科大学の設立も可能となった。原内閣では、中等実業教育の拡充、私立大学への補助、各学校教員の待遇改善も行われた。

第二に、交通については、殖産興業と密接に関わるものとして、鉄道を中心に、港湾、海運、道路、電信電話などの交通通信網の整備計画に努めた。1921年には、当時の国鉄の総営業キロと匹敵する、
約1万キロの鉄道路線新設を盛り込んだ改正鉄道敷設法案を議会に提出している。同案は、原の死後の翌年、高橋是清(1854-1936)内閣(1821-22)で成立、戦後においても鉄道敷設計画の基本案として生き続けた。また、軍事輸送や大陸との鉄道連結の観点から主張されていたレールの広軌改修案を退け、国内各地域の産業発展の観点から従来の軌道幅による路線延長を推進した。こうした交通政策は、当時、普及していた民権思想とも合致し、国土の「均衡発展」を目指したものであった。港湾についても、神戸、横浜、門司などの各港の修築が行われたほか、国際的な海運事業の展開が必要とし、積極的な振興策が採られた。

第三に、産業振興については、臨時財政産業調査会が設けられ、その答申に基づいた政策が実行された。上に挙げた海運、そして造船業、寺内内閣以来の鉄鋼業の奨励振興策のほか、新たな基礎工業として位置付けた化学工業への保護政策、繊維産業への通商、金融面での支援策などが採られた。こうした政策は、鉄道網拡充と連携するところが少なくなく、極めて戦略的な措置であったと言える。農業では、開墾奨励、品種改良や畜産への助成、土地改良、水利、治水事業の推進措置を講じている。

第四に、国防の充実については、第一次政界大戦において、戦争の形態が、総力戦に移行したこと、
戦車、航空機、潜水艦、空母など新型兵器が投入されたこと、などの重大性を原は深く認識していた。軍備の近代化に積極的な姿勢で臨み、特に海軍を重視し、1920年の第43議会では、戦艦8隻、巡洋艦8隻、いわゆる「8・8艦隊」建造費を盛り込んだ予算を成立させた。同時に、航空機および海軍艦艇の運用に石油が死活的なことを認め、海外の石油採掘権確保に乗り出した。

こうした装備の近代化、軍事費の拡張は、景気に対する効果は期待できるが、国家財政にとっては負担となる。教育、交通、産業の諸施策も財政上大きな支出増加となった。

原内閣は、所得税の課税、酒税の増税、そして公債の発行で当面、財政上の問題を切りぬけようとするとともに、世界大戦の教訓と経済復興優先という観点から、軍縮が列強の間で議論されることを早くから想定していた。1921年、米国が提起したワシントンでの海軍軍縮協議開催にも同軍縮の実現をめざし、積極的に応じる姿勢を示した。ワシントン軍縮会議は、原の死後、後継の高橋是清内閣によって、交渉が進められ、22年6月、参加国により、海軍軍縮条約が調印される。同条約では、日本の主力艦艇の保有総トン数は、米英の6割と定められた。軍縮条約調印後、日本の軍事費の一般会計の歳出額における比率は、大幅に低下し、26年には21年当時の約6割となっっている。なお、同条約により、複数の巡洋艦の建造計画は中止されるが、いくつかの巡洋艦は、その後、空母として建造され、第二次世界大戦の初戦で活躍することとなる。

1918年秋から19年初めの原内閣発足当時、日本経済にとっては、世界大戦の終戦というマイナス要因が強く懸念されたが、欧州の復興の遅れ、米国の好景気、中国への輸出の増大という要因によって、19年夏には、大戦期を上回る「戦後景気」状況が現れた。しかし、20年3月には、株式市場の大暴落や、銀行の破たん、取り付け続出など、「反動恐慌」(1920年恐慌)の状況が出現した。「恐慌」は、同年夏には、底入れし、不況期に移った。原内閣は、こうした大きな経済の変動期のかじ取りを迫られたことになる。

原内閣が推進した四大政策に代表される「積極財政」は、1920年恐慌とその後の不況に対して、景気調整策の役割を果たしたと言える。大戦期間の1917年以降、金本位制が停止されていた状況下、財政手段による景気回復策は、1930年代に各国が用いた、フィスカル・ポリシーの先駆けであった。恐慌の沈静化には、日本銀行などによる、株式市場、商品市場、銀行、製糖業、製鉄業などへの大規模な救済融資も採られている。原内閣の経済政策は、まさに「全方位」であった。

原が暗殺された後の日本経済は、1930年まで、年平均2%の成長を遂げる。それは、同時期の戦争の混乱と破壊から立ち直った欧州列強や戦争の「域外」にあった米国の成長率と比べると相対的に低いものであった。原の死後の歴代内閣の諸政策や所与の諸条件についてはここでは語らない。しかし、少なくとも、大戦後という大変動の時期に、原が採った経済政策は、当時としては、人事を尽くしたと言えるのではないであろうか。

その1920年代の日本の経済成長を支えたのは、個人消費支出と政府支出であった。個人消費では、飲食費の比率が低下し、被服費、光熱費、交通費が増大した。所得の上昇や、都市への人口集中があり、サラリーマンの増加、私鉄による郊外路線の開発、デパートの増加などがあり、人々の生活スタイルや消費生活にこの時期、大きな変化が生じた。普通選挙法案が議会で採択されたのは、25年3月であった。政府支出では、地方支出の伸びが中央支出を上回った。都市の再開発事業が推進され、道路、上下水道、公園などのインフラが整備されるとともに、土地区画整理が活発に行われた。こうした生活条件の変化は、「(小)市民」階級を誕生させたと言える。原はこうした新しい社会を見ることはなかった。

1921年11月4日、原敬は、東京駅で国鉄職員に暗殺された。享年65歳。現職首相の暗殺は、初めてであった。

偉大な政治家は逝っても、国家と山河は残り、次代に受け継がれる。我々は、あらためて、原敬を知るとともに、その後の我が国の歴史が、繁栄とは異なる道を歩んだことを大いに教訓とすべきである(終)。

応援コラムについて

千田勝一郎を応援する友人「石クローバー」による政治コラムです。
岩手県出身の首相・原敬(1856-1921)にまつわるエピソードから、政治と政治家、国家のあり方について論じていきます。