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第五回「政党政治」の確立を目指す2<br />(官僚の「政党化」)

第五回「政党政治」の確立を目指す2
(官僚の「政党化」)

「政党政治」とは、選挙という選挙民の意思表出手段を経て、選出、形成された議会(衆議院)の多数勢力が内閣を組織し、行政権を行使するというものである。

しかしながら、議員内閣制を採用している国では、もともと、立法府に力の基礎を置く政党が、行政運営を行うにあたり、官僚勢力から実質的な主導権を獲得するには、いくつかの条件がある。それには、各省庁のトップを始め、高位ポストに自党の人物か、あるいは自党の政策に忠実な人物を就任させるとともに、同時にこうした政党(系)幹部がその管轄部門における(実質的な)人事権を有することが必要である。

原敬は、政友会の政治権力の安定化のために官僚への統御を強化に努めたが、各省のコントロールにあたっては、次官、局長など高位官僚に対して、政友会支持、政友会入党を進めるという官僚の「政党化」という性格を有していた。

自身も官僚出身である原は、行政経験を基に、行政実務力、立法関連の実務力、人脈、社会一般問題への知見などにおいて、一定水準以上の「政治能力」を持つ人材として官僚を評価しており、その活用に着眼したのである(もちろん、当時においても現在においても、高い「政治能力」を有する官僚は全体の一部といえよう)。

政友会が与党として、政権運営に関わった1900年以降の当時、各省の高位ポストについては、大臣による民間人の起用など、自由な人事権、つまり、「自由・政治任用」を阻む法令として、「文官任用令」が存在していた。文官任用令(1893年制定)とは、政府官僚の任用資格を定めたもので、山県有朋は、自身の第二次内閣期間中(1898-1900)の1899年、同令を改正し、各省の次官や局長、府県知事などの「勅任官」の任用資格について、制約がなく、いわば「自由任用」であったのを、「文官高等試験合格者の奏任官」(各省書記官)と改めていた。

政府の各省において、次官以下は、官僚が就任する規定となっており、こうした人事権が制限された条件下で、現実的には、大臣が担当省を十分にコントロールすることは必ずしも容易ではなかった。これは、官僚の身近な忠誠の対象が、大臣ではなく、別のところにあったからにほかならない。それは、内閣とは、元老を筆頭とする藩閥という「別の政治勢力」であり、その最大たる人物は、山県有朋であった。文官任用令の改正は、枢密院への諮問が必要とされていたが、山県は同院議長も担当していた。

当時の各省の官僚にとって、次官などの退任後は、貴族院議員に選出されるのが代表的な栄達の目標であった。官僚退任者の貴族院議員任命は、天皇の権限による「勅選」であったが、任命は内閣の輔弼を受けるものとされていた。山県は実質的な首相指名権を持つ元老の筆頭として、貴族院議員の人事にも影響力を有していたのである。また、全国の各県知事の任命権を有し、警察行政と深く関わる内務省は、山県が1893年から90年まで、合計7年間、内務卿、内務相を担当したこともあり、同人の強い影響力下にあった。

政友会が衆議院議員を増加させるにあたり、各選挙区での政治基盤を増強させることは当然の課題であった。この課題の実現には、経済、財政的手段のほかに、地方行政、治安事務における同党の影響力を行使させることが必要であった。1906年1月に西園寺公望第一次内閣(〜08)が発足し、政友会が与党となると、原は内務相に就任し、地方の行政、治安の「大権」の長となった。

原は、まず、警察組織の改変にとりかかる。当時、警視総監は、首相と内務相の二重の指揮権を受ける形になっていたが、規則を改正し、内務相のみに責任を負うようにした。そして、薩摩出身で「親政友会」の安楽兼道を同ポストに任命した。この後、第二次西園寺内閣(1911-12)、第一次山本権兵衛内閣(1913-14)において、原は合計三度、内相に就任するが、その担当期間中、安楽は警視総監に任命される。このように、警視総監は、「政治任用」のポストとなり、従前は、山県など藩閥の影響下にあった警察組織と政党(政友会)の敵対関係は、根本的な変化 を迎えた。

内務省においては、薩摩出身の床次竹次郎(1868-1935)と水野錬太郎(1868-1949)などの官僚を抜擢し、高位ポストに任命した。床次は、1906年に地方局長、08年に樺太庁長官、11年に内務次官、13年に鉄道院総裁、その後、衆議院議員に当選、18年、原内閣では内務相に就任している。水野は、1911年、土木局長兼地方局 長、12年、衆議院議員、1913年、内務次官、そして政友会が「閣外協力」した寺内内閣(1916-18)で内務次官、内務相、19年、原内閣で朝鮮総督府政務総監に就任している。

原は、1913年、山本内閣当時、文官任用令の改正に成功し、各省次官、勅任参事官(局長級)は自由任用となったが、14年、第二次大隈重信内閣(〜1916)は、これらポストを非自由任用に復している。1920年、原内閣(18-21)は、再び、各省次官、勅任参事官を自由任用とするが、1924年、第一次加藤高明(1860-1926)内 閣(1924〜25)の下、これらポストは、再び非自由任用とされた(次官ポストについては、政務次官というスタッフ職を新設)。戦前の政党内閣は、1932年5月15日の犬養毅(1855-1932)首相の暗殺で幕を閉じる。そして、官僚の「パートナー」の役割は、政党から軍部に移り始めるようになる。次官以下の非自由任用の規定は、戦後の現在も維持されている。

原が推し進めた、官僚の「政党化」のより重要な意義は、地方の知事レベルにあった。当時、知事と県の幹部ポストは、内務官僚の任命職で、政府資金の分配に決定的な権限を有し、各選挙区での政党の基盤形成に密接な関係を有していた。原は、合計三回の内務相就任期間中に41知事を休職にし、また、異動人事を用いるなどして、政友会の影響力拡大に努めた。政友会の地盤の弱い地方には、「親政友会」の知事を、政友会の地盤の強い地方には、中立、あるいは「反政友会」の知事を意図的に任命したのである。

政党の官へのコントロール強化の効果を有する省庁の高位ポストの「政治任用」については、
通常、以下のような問題点が指摘されている。

●実務に通じない幹部の任用による行政効率の低下
●中堅・下位官僚における、将来の昇任ポストを失うことからのインセンティブ低下
●中堅・下位官僚の政権党、被「政治任用」幹部への「取り入り」などの増加
●被「任用者」が違法な利権獲得を追求する

こうした問題の解決策としては、
●幹部の任用は適材適所とする
●年功による給与システムを改め、技能評価による給与システムを採用、スタッフ職への給与の厚遇(プロ野球は監督よりレギュラー選手の年俸のほうが高い)
●各省庁内の政策決定や人事評価の制度化、人事評価においては、監督者のみならず、同輩や部下、後輩などの全体評価システムの採用、規律順守の徹底
●規律順守の徹底
などが挙げられる。

「政治任用」を採用しない主な理由の一つとして、公務員の中立性維持を強調する意見もある。ただ、国民に選ばれた政権党の政策が円滑に実行されることが何よりも重要であり、制度が、その手段を担保しなければならないことは、自明の理である。

応援コラムについて

千田勝一郎を応援する友人「石クローバー」による政治コラムです。
岩手県出身の首相・原敬(1856-1921)にまつわるエピソードから、政治と政治家、国家のあり方について論じていきます。