1900年11月に政友会に入党し、同党総務委員として同政党の実質的運営者の一人とになった原敬にとって、政友会の実力を背景にした政治運営と政策の実現が目標となる。それには、同党が、衆議院で多数を占めるとともに、政権運営者と提携、または、同党総裁が自ら組閣して、行政権を握ることが必要であった。
しかし、現実として、安定した政治権力を得るためには、これだけでは十分ではない。もう一つの立法機関である貴族院での影響力拡大、軍機、軍務において「帷幄上奏」の権限を有する軍部の「政治的影響力」の抑止、やもすれば、「面従腹背」となる官僚への統御強化、などが課題であった。この貴族院、軍、官僚組織に厳然たる影響力を持つのが、藩閥の頭領たちであり、その中でも、長州閥のリーダーの山県有朋(1838-1922)は、元老筆頭であり、強大な影響力を有していた。山県は、天皇の国政諮問機関とされた枢密院の議長も長期間(1905-09、09-22)務め、当時の政権の政治運営に関与することしばしばであった。
1911年8月に発足した、政友会総裁(1903-1914)の西園寺公望(1849-1940)の第二次内閣は、陸海相と外相のほかは、すべての閣僚ポストに政友会の党員を閣僚に起用し、本格的な政党内閣といえるものであった(一部閣僚は組閣後に入党)。原敬は、同内閣に、西園寺第一次内閣(1906-08)に引き続き、内務大臣として入閣している。明治天皇の崩御(1912年7月30日)という大事を乗り越えた西園寺内閣であったが、陸軍が二個師団増設を要求し、これが受け入れられないと陸相が、「帷幄上奏権」の行使として、首相の手を経ず、大正天皇に直接辞職を提出した。そして、陸軍は後任の陸相の選出を拒んだため、陸相が得られない西園寺内閣は、辞任してしまう。当時、陸海相は、現役の大将、中将に限るという規定(軍大臣の現役武官制)があったため、陸海軍としては、首相に対し、大臣候補者の選出を拒否することで、事実上の「倒閣権」を有していた。ちなみに大臣ポストを、内閣の倒閣や組閣を失敗させる手法として用いたのは陸軍のみであり、海軍については例がない。
1913年2月、薩摩出身の海軍大臣、山本権兵衛(1852-1933)が首相に任命される(第一次内閣、-1914)。政友会は、同内閣の与党となり、自前の政策を実現する。原は、三度目の内相に就任した。かつて、煮え湯を飲まされた軍大臣の現役武官制について、原は、山本首相に改正を要求し、陸海相の資格は、予備役大中将でも可能となり、例えば、薩長閥系以外の、必ずしも陸海軍指導部と近くない人物でも、首相が選択できるようになったのである(但し軍大臣の現役武官制は、1936年に復活)。
原は、1918年9月、首相にすると、軍に対する統制、または、政治力の弱体化に努めることになる。まず、植民地の「行政長官」が武官専任制であったのを、文武官いずれも可とする文武官併用制に改めた。関東都督府は、関東庁と組織編制が変更され、文官が長官に就任した。朝鮮、台湾総督府長官も同様の手続きが採られ、台湾では文官の総督が誕生した。原は、軍部大臣についても、武官専任制から、文武官併用制に改めようとしていた。1921年10月、海軍の軍縮、極東・太平洋の問題を協議するワシントン会議に海相の加藤友三郎が出席するため、訪米する期間中の留守居として、原は、海相代理職である「臨時海軍事務管理」に就任する。1885年の内閣発足以後、軍役のない、文民の軍大臣就任は、初めてであった。この翌月、原は暗殺され、「臨時海軍事務管理」在職で死を迎える。軍部大臣の武官専任制の変更は、実現されなかった。
原は、首相就任期間中、天皇の「統帥権」に直属する軍令部門、参謀本部を内閣の統轄下の陸軍省の命令系統に組み込ませようとも努めた。いわゆる軍政部門と軍令部門の一体化、そして、軍政部門の軍令部門に対する優位の確立であった。原は、この改革案実現においては、上原勇作参謀総長(1856-1933)と対抗する当時の陸相であった田中義一(1864-1929)の協力を得ようとしていたようであるが、田中は、体調を崩すなどしたことから、21年6月、陸相を辞職し、何より、原自身が、首相の任期途中に殺害されたため、軍に対するコントロールの制度的措置は、道半ばで終わってしまった。
戦後の憲法では、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(第66条第2項)とされ、政軍関係における政治の優位が確立している。
平成19年1月防衛省発足にともない、これまで付随的任務とされていた、国際平和協力活動(国際平和協力(PKO)業務等、国際緊急援助活動等、テロ特措法に基づく活動及びイラク特措法に基づく活動 、周辺事態への対応、機雷等の除去及び在外邦人等の輸送などが、を自衛隊の本来任務として位置付けられた。
政治家、そして我々国民は、現在、国防に対して非常に大きな責任を負っている。






