大日本帝国憲法(1889年発布)は第4条に「天皇は国の元首にて統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ」と定めてあり、これは、統治権についての規定、いわゆる「政体規定」と解釈される。なお、同憲法には内閣に関する規定がない。内閣に関する法規としては、「内閣官制」(1885年制定)があるが、その任命手 続きに関する規定はない。
憲法上は、首相の任命権は天皇にあり、衆議会における多数の勢力とはなんら関係はなかった。なお、1889年に元老会議が設けられると、同会議が首相の候補者を天皇に推薦するようになった。
議会(衆議院)の多数を占める政党の党首が首相を務めるという、いわゆる政党内閣が初めて成立するのは、1898年6月の、大隈重信(1838-1922)が首相、板垣退助(1837-1917)が内相を務める、いわゆる「隈板内閣」であるが、これは、もっぱら現実的要請によるものであった。それは、政党の協力がない限り、衆議院で 予算や法律が通らないからであった。
同年同月に、板垣、大隈のそれぞれが党首を務める自由党と改進党が合同し、議会で過半数を占める憲政党が誕生したことも直接の契機となった。つまり、憲政党の誕生時点で、同党の協力を得ない限り、議会運営は非常に困難であるため、それならば、憲政党に政権を任せようというのが、元老の伊藤博文の考えであった。 しかし、この隈板内閣は、内紛を理由にわずか4か月で崩壊し、後継首相は山県有朋(第二次内閣)となる。
元老、伊藤博文は、議会対策の必要上、自身の第二次内閣(1892-96)担当当時から、自ら政党を組織し、その基礎の上に立つ内閣を創る考えを持つようになっていた。
しかし、この考えに、山県らは、「政党が内閣を作ることを認めることになる」として反対を唱えていた。当時、伊藤の考えはそこまでには至っておらず、彼の考えは、元老、もしくは藩閥代表が、いわゆる政府党をつくり、議会内で多数を占める勢力を形成、首相と政党党首を兼ねるというもので、藩閥と政党の「融合」と いうべきものであった。1900年5月、憲政党(自由党系)は、山県内閣との提携断絶を発表し、新党設立構想を抱いていた伊藤との協力の模索を開始する。同年9月15日には、憲政党は解散し、伊藤を総裁とする新党、立憲政友会に合流する。
政友会発足の間もない10月7日、伊藤は首相就任の大命を拝受し、同月19日、閣僚は、陸、海、外務を除くすべてのポストを政友会党員が占める「政友会内閣」(伊藤第四次内閣)を発足させる。この時、政友会の党籍を持つ衆議院議員は、152名であり、定員の過半数を占めた。
ところで、原敬は、この政友会の創立にあたり、核心的役割の一部を果たしている。党則や綱領、組織体制などの問題は、伊東巳代治(1857-1934)、星亨(1850-1901)、当時、大阪毎日新聞社社長であ った原敬の3人の合議によって取り決められた。伊東は、伊藤博文を代表して、星は、憲政党を代表して、原は、資金を用意する元老の井上馨(1836-1915)を代表して、という資格であった。原と井上はこのとき、旧知の仲であった。原の正式の入党は、同年12月19日、党の総務委員兼幹事長(庶務、会計担当)となっている。そして、同月、辞職した星亨の後を受けて、逓信大臣に就任している。戊辰戦争以来32年、東北地方からの初の大臣誕生であった。
藩閥代表者でも官僚でもない、東北出身の政党政治家が閣僚に就任する、まさに時代のすう勢であった。伊藤は、閣内不統一などから、1901年5月に首相を辞職し、後継首相には前陸軍大臣の桂太郎(1848-1913)が就任する。伊藤内閣の辞職で、原敬も閣僚職から去ることになるが、1902年8月に行われた衆議院選挙で、盛岡市選挙区で立候補し、当選している。名実ともに政党政治家、原敬の誕生であった。
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第二回「時代のすう勢」
応援コラムについて
千田勝一郎を応援する友人「石クローバー」による政治コラムです。
岩手県出身の首相・原敬(1856-1921)にまつわるエピソードから、政治と政治家、国家のあり方について論じていきます。
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