戦前の政治家で、功績のあった人物を挙げるとなると、やはり伊藤博文(1841-1909)である。憲法の制定、内閣制の導入、立憲政友会(1900-1940)の結党など、国の政治体制の根幹に関わる仕事を行ったと言える。そして、その次は、と考えると、岩手県出身の原敬(1856-1921)を挙げたい。
原敬は、よく「平民宰相」と称されてきた。それは、原が首相に就任した際、爵位を持っていなかったからで、実際に、初代首相の伊藤以来、無爵位の首相は原が初めてであった。しかし、原は爵位を得ようと運動したこともあったとされる。それはともかく、ここで、筆者(石)がこだわりたい冠詞は、「平民宰相」ではなく、「政党政治家」である。
原の職歴は、新聞記者、外務、農務官僚、新聞社社長、そして政友会党員、衆議院議員と変わる。原に敬意を感じるのは、明治憲法下で,予算、法律の成立という議会における政党の役割、また、選挙民の政治意思を凝集し、それを政治過程において具現するという政党の役割を十分に認識し、それをまた十分に果たしたことと言える。
政友会初代、第二代総裁であった伊藤や西園寺公望(1849-1940)は前者はよく努めたが、衆議院に議席も持っていなかったこともあり、後者は必ずしもそうではなかった。彼らは、政友会総裁であっても、一般の政友会の党員や支持者とは、心理、行動ともに距離があり、彼らを直接的に代表できる人ではなかったからである。原は、やはり党員、支持者により近い立場で、常に政友会の勢力拡大に努め、また、党員の任用範囲の拡大のための文官任用令の改正、党員の選挙基盤の安定のための小選挙区制への転換など、政友会の「利益」をもっぱら重視した人と言える。
元老山県有朋(1838-1922)は政党嫌いで、何とかその影響力をそごうと努めた。山県は、超然内閣、政党との協力内閣の成立は認めたが、首相以下、閣僚ポストを与党が占める政党内閣については、原の組閣まで認めなかった。原が政友会で活躍した20世紀初頭、元老、藩閥、軍隊、官僚、これら4つの勢力は混合して、「反政党」の一つの絶大な権力を作り上げていた。そのトップに山県有朋がいたわけである。原は、これらの権力に時に真っ向から戦い、時に交渉し、時に「詭道」を使い、自身と政友会の力を増大化させていった。元老、藩閥、軍隊、官僚、このような勢力は、衰微したとしても必ずしも一時でなくなりはしない。しかし、政党政治家は、選挙が唯一の基盤であり、選挙に落ちれば全てを失ってしまう。原は、民意を支えとする政党政治家として、政友会に入党から東京駅で凶弾に倒れるまでの21年間、「反政党」権力との戦いを続けるのである(衆議院議員当選は1902年)。
原が挑んだ戦いは、南部藩による戊辰戦争での「朝廷方」との戦いを彷彿とさせる。戦いに敗れた南部藩は家老の楢山佐渡(1831-69)が刎首(ふんしゅ)、石高減封の上、転封、そして、版籍奉還に先立っての廃藩と悲惨な道を歩んでいる。家老の家系にあった原自身も明治維新後、士族を脱籍するに至っている。しかし、原敬は後年、政治の戦いに勝利する。政党が、政治家が力を合わせて、民意を背景に巨大な権力の壁を打ち破る。原敬の歴史上の功績はまさにこの一点にある。
本コラムでは、今後、原敬にまつわるエピソードに触れながら、政治と政治家、国家のあり方について論じてみたい。
(石クローバー 2007年3月1日記す)






